【第九話】 海の幸は山の幸、守り活かす人の幸。【後篇】

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    回帰する鮭、熟成するウイスキー。
    人は人知を尽くし、その時を信じて待つ。

    岩牡蠣の旬が過ぎてまもなく、田圃は黄金色の絨毯に彩られます。季節は巡り夏から秋へ。稲刈りもすっかり落ち着き、朝晩の空気に冷気が混ざり始める10月、大洋の長い旅路から生まれ故郷である遊佐町の川を目指して、鮭が遡上してきます。町内の縄文遺跡にも捕食の痕跡が残る鮭は、雪に閉ざされ食料が少なくなる冬季間、遊佐の人々にとって貴重な食材でした。

    遊佐町では、遡上する鮭を自然任せにせず、古くから孵化事業に取り組んできました。日本で最初に人工孵化が行われたのは明治9年(1876)と言われています。遊佐町での始まりは明治40年(1907)、かつて7カ所の採捕場と孵化場がありました。現在は3カ所あり、その一つが牛渡川で、箕輪鮭漁業組合が事業を行っています。

    牛渡川に遡上する鮭は多いときで一日に1,000~2000匹、年50,000匹に及びます。組合員の皆さんは朝一番で鮭を川から生簀(イケス)に追い込み、捕獲してすばやく採卵・受精。受精卵は孵化槽でおよそ50日後の孵化を待ちます。鮭が一腹に抱える卵は約3,000、組合では9割以上の孵化を理想に掲げているそうで、さらに体長5~8cmの稚魚になるまで手間暇を惜しまず大切に育てられます。
    この採捕・孵化事業を支えるのは、遊佐の湧水です。鮭は湧水の出る砂利底の川を産卵に好み、また人工孵化には豊富にかけ流しできる湧水が欠かせないといいます。牛渡川は丸池様のほとりにあり、どちらも鳥海山がもたらす伏流水の湧き水だけで成り立っている水の聖域。鮭を迎え、稚魚を育み、海に運ぶのも、涸れることなく湧き続ける水です。縄文以来、遊佐の人々の暮らしや鮭の食文化はこうして今に受け継がれています。

    年を越し、翌年の2月半ば。北国の春はなお遠く、まだまだ寒風に凍える日が続く頃にいよいよ稚魚の放流を開始。約800万匹が海に向かいます。オホーツク海、ベーリング海などの北洋を回遊し、無事に回帰できるのはわずか0.3~0.5%に過ぎません。それでも、命を繋ぎ絶やさないためには自然産卵に任せずに、人の情熱をかけてあげることが不可欠なのです。

    鮭がどうして生まれた川に帰ることができるのか、その母川回帰本能の仕組みはよく分かっていません。最近では水の匂いを嗅ぎ分けるとも言われています。そして「帰省」はなぜか3年から4年後。「ニューメイク」と呼ばれる蒸溜されたばかりのウイスキーが熟成する歳月に不思議と符合します。人知を尽くし…私たちは信じて待つしかないのです。

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